サンプルページ No more fat

 今は東京に住んで、三四年に一度づゝすら村へは歸つて來ない小池といふ畫を描く男の、縣だとか郡だとかいふことには一切頓着してゐない容子が、奧床しく思はれてならなかつた。大臣だとか議會だとかいふ話が出ても、豚小屋か蜂の巣の噂さほどにも思つてゐないらしいのも、お光には耐らないほど小池をえらく思はせた。
 東京に展覽會なぞが開かれて、小池の描いた畫の評判が新聞や雜誌に出ると、お光は眼を皿のやうにして一々讀んだ。小池の評判がだん/\高くなるのが嬉しくてならなかつた。
「小池はんちう人はえらいんだすな、東京や大阪の新聞に、しよつちう名が出てまんがな。」なぞと、店へ來て話す人でもあると、お光はいよ/\嬉しくて、其の人を無理に引き留めて、一本漬けて出したりした。さうして田舍の新聞へ偶に自分の名が出ると、鬼の首でも取つたやうにして、持つて來て見せびらかす旦那の仕業が、ます/\淺ましく思はれて來た。
「村で一番出世をしたのは、小池はんと、新田の五郎作やがな。すもん(角力)でもあつてみい、五郎作の名は毎日々々新聞に出んことあれへん。」なぞといふ人もあつた。

 私はいつも父につれられて風呂に行った。毎夕私は、父の肩車に乗せられて父の頭に抱きついて銭湯の暖簾をくぐった。床屋に行くときも父が必ず、私をつれて行ってくれた。父は私の傍につきっきりで、生え際や眉の剃方についてなにかと世話をやいていたが、それでもなお気に入らぬと本職の手から剃刀を取って自分で剃ってくれたりなんかした。私の衣類の柄の見立てなども父がしたようであったし、肩揚げや腰揚げのことまでも父が自分で指図して母に針をとらせたようであった。私が病気した時、枕元につきっきりで看護してくれたのもやはり父だった。父は間がな隙がな私の脈をとったり、額に手をあてたりして、注意を怠らなかった。そうした時、私は物をいう必要がなかった。父は私の眼差しから私の願いを知って、それをみたしてくれたから。

生、此の現実を信じない人間があつたらどうする。君達が人生だと思つてゐる人生、それは人生の仮面に過ぎない。ほんとうの人生は、もつと別な相をしてゐるのかも知れない。さういふ人生を探し求めてゐる人間があつたらどうだ。現実、これが人生の全部でないことは君だつてわかつてゐるだらう。しかも君たちはその現実を人生の、少くとも一部として信じてゐる。ある人間は、この現実さへも、信じられずにゐる。眼に映じ、耳に響き、肌に触れ、心に感ずる様々な事物が、かく映じ、かく響き、かく触れ、かく感ずることを既に疑つてゐる人間があるかも知れない。わからないか。君は或る「苦しみ」を「苦しみ」として享け容れてゐるね。一部の人間は、その「苦しみ」を「苦しみ」として享け容れることが正しいかどうかを疑つてゐるんだ。君達が「楽しい」と云つてゐることを「楽しい」と云はなければならない理屈はないと思つてゐるのだ。自分が「苦しい」と思ふとき、「楽しい」と思ふ時、「おやおや、おれはほんとに苦しんでゐるのか知ら、ほんとうに楽しんでゐるのか知ら」さう自分自身に訊ねて見る人間がないとも限らないではないか。